上田 一里塚


 盛岡市の北、上田から国道4号バイパスを越え松園方面へ向かう市道上田深沢線沿いに緑が丘・黒石野の地域はある。


昭和初期の上田一里塚 緑が丘・黒石野の地域

 緑が丘地区(旧修道院前)には西側だけとなってしまったが、松が道沿いに残り旧奥州街道を想起させる景観があり、県史跡の「上田一里塚跡」も残る。
 今でこそ、盛岡バイパスの外側は山を崩して切り開き開発された一大住宅地が広がるが、戦後しばらくまでは人家の少ない山だったそうだ。

 その後1971〜1985年にかけて市道上田深沢線拡幅事業が行われ、4車線の道路が整備された。
 1989年10月、「アネックスカワトク」が、移転した盛岡ドミニカン修道院跡地に開業。 さらに、大手ホ−ムセンターやスーパー、ドラッグストアーなどの進出でこの地域も発展してきた。
昭和初期の上田一里塚
「文化財調査報告第15集 盛岡市一里塚調査報告書」より転載
(盛岡市の許可済み)


一里塚

 一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に、旅行者への距離の目印として設置した塚(土盛り)である。

 元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていた。ただし、当時の中国での1里は約500mであった。

 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。
 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を基点とし36町を一里(3972メートル)と定め、一里ごとに里程標として全国主要街道に築かせた。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。
 街道の両側に築かれた一里塚は、その上に植えられた樹木と相まって、里程標として、また夏は涼を求め、冬は雪を避ける手段ともなり、旅人に便を与えたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  上田一里塚

 大正十一年(一九二二)の岩手郡長の調査報告書によると、上田一里塚は米内村大字上田字蝦夷森にあって、「盛岡ヨリ青森二通スル旧道ノ左右二相対シテ」とある。当時は米内村の村道に属していた。
 その後、昭和四年(一九二九)に米内村は盛岡市に合併したが、その昭和初期までは道路の左右に二基の塚があったことは、多数の人々がいまも記憶しているところである。しかし、それから次第に市街化が進み、東側の塚は近年になって消滅してしまった。西側の塚だけは、幸運にも修道院ができて院内に囲み込まれたために、現在もなお残存している。

 「カトリック宗教法人・盛岡ドミニカン修道院会・代表佐藤敦子・盛岡市上田蝦夷森七二番」となっていたが、町名が変わって「盛岡市緑が丘四丁目一―六〇」となった。これが、現在の上田一里塚の所在地である。

 塚の残存形状は、東側の裾の一部がけずられてはいるが、ほぼ円形で、裾部で東西径一〇・五メートル。
南北径一一・五メートル。裾部から頂部までの高さは三・五メートルである。
(昭和五十年三月「盛岡市一里塚調査報告書」による)
修道院と上田一里塚
ロザリオの聖母修道院と上田一里塚
「新編 盛岡市の文化財」より転載
(盛岡市の許可済み)
 盛岡城のできた寛永年間、城下の鍛冶町に里程の元標が設けられて、領内の里程はここを堪準とした。それでこの鍛冶町の元標から南ヘー里のところに。川久保一里塚が、北ヘー里のところに蝦夷森の”上田一里塚”がつくられていた。そして明治初期までは、国道は仙北町から穀町・呉服町・紺屋町・鍛冶町から、本町・四ッ家町・上田組町・黒石野へと通じ、それから北上川の東部を通過していた。

 そののち明治二十五年(一八九二)ころになって、国道路線が変更され、盛岡〜渋民間の路線を北上川の西部に移し、国道は中の橋から内丸通りを過ぎて、材木町から茅町を通って、夕顔瀬橋を通過することになった。本県の里程元標も、鍛冶町から内丸に移されることになり、明治二十四年(一八九一)十二月二十八日に県告示第八十一号で、岩手県里程元標を盛岡市内丸に移転することが公示された。

 これが、市役所前にある現在の里程元標の位置である。
もりおか物語(5) ― 上田かいわい ― より


岩手県里程元標について

盛岡ドミニカン修道院

 1936年、ベルギーから6人のドミニカン・ロザリオの聖母修道会が来日し盛岡に修道院を建てるために着いた。内丸の借家を仮修道院としながら、1939年(昭和14年)に、上田蝦夷森(緑が丘)に最初の女子観想修道院「ロザリオの聖母修道院」を建てた。
 1986年に松園に隣接する上田松屋敷の地に移転、修道院を新築した。

 築造以来に流れた歳月は四百年。その間、なにも言わずに人間の生活の移り変わりをじっと見つめてきた一里塚



伊山治男氏 写真集 「あの角を曲がれば」から


 ・・・がしかし、2004年8月31日午前9時45分ごろ、一里塚に立っていた赤松が台風16号の強風にあおられ倒木した。

盛岡タイムス社の記事



 地元商工業界や住民が愛着のある風景を取り戻そうと、植栽を所有者の市に相談し、

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 市文化財保護審議会の了承も得られたことで、県文化財保護審議会委員の了承や現状変更届などを経て2005年7月植栽を行った。

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