盛岡の歴史

旧石器時代 - 縄文時代 - 弥生時代

冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は、専ら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、国内最大級の縄文式土器が発掘されている一方、弥生式土器の発掘例は殆どない。

「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に12000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。岩手県指定遺跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴式住居跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における「爪形文土器」他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「ヒスイ」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。

南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。

平安時代

盛岡の起源は、延暦22年(803年:平安時代)、桓武天皇の東北進攻政策にあたり、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって陸奥国最北の城柵「志波城」(現在の盛岡市中太田方八丁附近)が造営され、一帯が律令体制下に置かれたことに遡る。 その規模は外郭で鎮守府「胆沢城」、政庁規模で陸奥国府「多賀城」をも超え、当時の行政府として重要視されていたと見られる。さらに一帯では、朝廷による東北経営のための移住政策が進められており、上総(千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。 しかしそれ以前からも、既に蝦夷と呼ばれる強大な土豪勢力があった。「上田蝦夷森古墳群」「太田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」「蕨手刀」からは、古くからここに高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測される。

朝廷と蝦夷の勢力対立・融合の中で、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)、城柵を厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)に構え、これは支配地最北の砦であったと考えられる。

安倍頼時・安倍貞任父子らは、日高見国とも呼ばれた北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る源義家らの計略により攻撃を受け、厨川次郎とも呼ばれた貞任は、厨川(現在の盛岡市)で戦死した。これを前九年の役と呼ぶ。 貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。 さらにこの時、安倍一族の女性は捕らえられ、出羽国から源軍に加勢した敵方の清原氏に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則の支配下に置かれた。

「陸奥話記」は、この頃既に不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主であったと伝える。後に清原氏もまた後三年の役で内紛により滅ぶと、この地は清原氏を名乗るも藤原氏の血統にあり、さらに平家出身の母を持ち安倍貞任の甥にあたる清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなった。これが平泉の奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。

鎌倉時代から室町時代まで

産金による巨万の富を背景に、仏教による平和統治を目指した奥州藤原氏であったが、源義経を庇護したことで、源頼朝を頭領とする鎌倉幕府により追捕の対象となる。源頼朝は厨川に到り、前九年の役における父祖の先例にならい、藤原泰衡一族「樋爪俊衡」の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った伊豆国(神奈川県)地頭「工藤氏」が統治を始めた。工藤小次郎行光は嫗戸柵跡に「厨川(栗谷川)城」を定め、厨川柵跡には安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現:曹洞宗「巌鷲山天昌寺」)を創建、巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。

この頃、城下町・盛岡を開く南部氏も同様、奥州藤原氏征討の功によって鎌倉幕府から奥州糠部郷を拝領していたと伝える。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国(山梨県)巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たして以後、一度の領地替えもなく、約800年間に亘って奥州北部の掌握を遂げたと考えられる。

工藤氏はのちに「厨川(栗谷川)氏」を名乗り、南部氏と対立しながらも、福士氏をはじめ周囲の有力武門である斯波氏・葛西氏と縁戚関係を組みながら南部家臣下に組み込まれていった。またその末裔「栗谷川仁右衛門」は江戸末期に山林奉行となり、「諸木植立秘伝抄(山林雑記)」を著して食糧自給や林政の重要性を説いた。弘化3年(1846年)以後、藩の命を受け製紙・養蚕など殖産政策にも貢献した。幕末期、戊辰戦争の責を負い切腹した家老「楢山佐渡」は、母方が栗谷川氏の出である。

南北朝動乱期、現在の盛岡周辺でも有力氏族が割拠し、北朝の足利氏・斯波氏・稗貫氏一族に対し南朝の北畠氏・南部氏・葛西氏一族の対立が続いた。この斯波氏とは、盛岡南郊の斯波郡(紫波郡)高水寺城(現在の城山公園)に発する足利氏の一派で、源義家の末裔に当たる。建武2年(1335年)、足利尊氏が陸奥国国府と南部氏を制えるため、独自に奥州探題として足利家長を下向させたことに発する一族であり、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏に比肩する唯一の名族であった。そのため、一族の分派は「御所」の尊称で呼ばれた。これが盛岡市の「御所湖」の名の由来である。

後に室町幕府が開かれると、有力守護家として将軍を補佐する三管領に着任、その地位は事実上筆頭であり、貞治元年(1362年)に初代管領・斯波義将が任命された。当地での両朝の和議は「上田城」(現在の榊山稲荷神社)でなされたと伝えられる。

南部氏は南北朝時代に入って、「福士氏」を目代とし不来方(現在の盛岡)を支配する。福士氏は「甲州衆」と呼ばれる、南部家初代に従い甲斐国からやってきた家系である。福士伊勢入道慶善と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。大石寺文書には、建武元年(1334年)、日道上人の弟・新田孫五郎道章が陸奥国府より国宣を受け、仁王郷の三分の二を後藤氏へ授ける旨示しているが、南條氏がそれを認めず、という記述が残っている。これは波木井南部氏が甲斐国地頭時代から日蓮宗と深い関わりがあった影響とも見られる。南條氏は福士氏の祖との説もある。

南部家盛岡移転の契機は、南部家家臣大浦為信(津軽氏の祖)が秘密裏に羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得るという謀反によって、南部氏が津軽領(青森県西部)を失ったためである。結果、領土の中央部に城下町建設を計画する必要が生まれ、南部氏は新しい城下町の建設を決めた。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。

「都市としての盛岡」の礎を築いた南部氏(三戸南部氏)は、はじめ三戸(現在の青森県三戸郡)に居城を構えていた。加賀藩・前田利家らの仲介により豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を討伐し九戸城を福岡城 と改名、その後は浅野長政と蒲生氏郷の推挙により、不来方を新たな本拠に決定。天正18年(1588年)に高水寺城を「郡山城」に改め居を構えながら、信直、利直、重直の三代にわたり築城する。以後、三戸南部氏は盛岡南部氏と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(後の「遠野南部氏」、元の「波木井南部氏」)を配下に収め、南部家一党の宗家となる。

この頃既に南部領には、領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、北上川の河港・日詰郡山駅を拠点として盛岡城下町進出への足がかりとしていた。

江戸時代

南部家第26代信直は、まず城下町の建設に当たり、甲州衆をはじめとして多くの家臣の盛岡への移転を進めた。また旧城下町から町人移転を進め「三戸町」(現在の中央通三丁目)と命名。定期市を立て賑わいの核とした。

城から仰ぐ岩手・早池峰・姫神の「南部三山」に大権現を勧請。元和3年(1617年)には鬼門の方角に「宝珠盛岡山永福寺(真言宗)」を、また別に城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽寺(臨済宗)」を建立した。この二ヶ寺に加え、京都にならい北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、東禅寺(臨済宗)、教浄寺(時宗)、鳩峰山報恩寺(臨済宗)を特に「盛岡五山(北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、住吉神社などの神社を配した。元禄16年には、越前・金剛院の僧「空念」の指摘に拠り、南に「南部の繁昌」を願い毒ケ森を「南昌山」と改名したと伝えられる。「五の字割」と呼ばれる複雑に入り組んだ町割りで外敵を防ぎ、武家屋敷を「小路」、町人街を「町」と表記した盛岡城下町は、総じて軍事よりも宗教的安定を求めた設計であった。

物流は北上川舟運による輸送が主流であり、石巻を経由して江戸・上方と結ばれていたが、西には秋田街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。

慶長4年(1599年)、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米は悉く御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受け、今日に至る。

南部藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。それは開府にあたり招聘した近江商人をはじめとする領外商人進出による影響も大きい。彼らのうち有力な者は現在の滋賀県高島郡大溝周辺から進出した村井・小野ほか一族で、現在の大阪府から平野杜氏を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人の他、山城・大坂・伊勢・常陸など主に関西から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。殊に京都からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれ、近代まで盛岡の主要商店街であった。また上方出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町、津軽町(現在の津志田)、岩手町・久慈町(現在の材木町)など、城下近郊からの移住者による町も生まれた。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。

万治2年(1659年)、茶道に造詣の深い第28代南部藩主・重直公は、京都より釜師「小泉仁左衛門」を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。

第29代南部藩主・重直公は「不来方」の名を忌み嫌い、「盛り上がり栄える岡」という願いを込めた「盛岡」へと改称した。これは、元禄4年(1691年)、重信公と、城下の鬼門に当たる真言密教の鎮護寺「宝珠盛岡山永福寺」の第四十二世・清珊頂相法印との連歌から生まれたものだと言われている。「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名であるという理由から、文化14年(1817年)に南部藩も改称し、盛岡は盛岡藩の城下町となった。

盛岡へは、寛永10年(1633年)に黒田騒動で筑前国福岡藩家老・栗山大膳が、寛永12年(1635年)に朝鮮通信使を巡る外交問題で対馬藩(長崎県)から「方長老」(規伯玄方)が、遠く九州からお預けの身となったが、当時の藩主は茶の湯や漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが元来の地場工芸南部鉄器や菓子・作庭などに影響し、芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。

盛岡城で南部氏による統治が17代を数えた時、明治維新を迎える。奥羽越列藩同盟の抵抗勢力として薩長(明治政府)に抗った盛岡藩は、会津藩や仙台藩とともに、薩長に寝返った秋田藩に最後まで抗戦したが、主席家老楢山佐渡は戦の責を負って切腹し、城郭はことごとく破却、民間に払い下げられた。

盛岡藩は以後、賊軍の汚名を付される事となる。更に、1808年には蝦夷地防衛の過重負担が課せられ、盛岡藩とは敵対関係にあった旧仙台藩の支藩・白石藩へ南部家が転封されるなど、徹底した制裁処分に苦しめられた。その後藩主の盛岡復帰請願に対しさらに上納金を課せられるなど、薩長による締め付けは極限を極めた。これ以後、薩長に敵対する盛岡には文武で身を立てる風土が生まれ、明治以降に多くの軍人・政治家を輩出する契機となる。

明治維新期 明治3年(1870年)、他に先駆けた廃藩置県により盛岡藩は盛岡県となる。しかし翌年、藩制の弱体化を狙う明治政府は、他の旧藩領地を分割し、盛岡県に統合して岩手県とした。岩手の名は、盛岡が属していた岩手郡から取られたものである。

生活実態にそぐわない県域は、住民意志の統一性低下を招くものであり、今日なお多くの問題を残している。青森県三八上北地方・秋田県花輪地方などの旧盛岡藩領が、現在に到るまで住民意識が盛岡市と深く結びついているのはこのためである。

こうした動乱の中、明治5年(1875年)、盛岡と京都を拠点に全国規模の両替商として発展、為替方として新政府樹立に資金面で貢献した近江商人系の「小野組」は、政府により「三井組」(現在の三井グループ)と共同で「三井小野組合銀行」の設立を命じられる。同行は小野組破産、三井組の独立金融機関設立(現在の三井住友フィナンシャルグループ)に伴い、両者の手を離れ渋沢栄一の主唱のもと第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)となった。

同時期、盛岡藩御用商人・鴻池伊助店を経て「小野組糸店」に奉公、明治4年(1874年)「築地製糸場」を東京に設けた古河市兵衛が、政府金融方針の急変による小野組本店破産後に鉱山経営を始めた。これが古河鉱山、古河財閥(古河グループ)の起源で、現在の古河電気工業・富士電機・富士通・ニフティへ連なる。そのうちの古河銀行は後の昭和6年、小野組同様に当時の第一銀行、現在のみずほ銀行に引き継がれた。明治8年(1882年)、盛岡では南部家による疲弊した旧藩士救済のための開墾事業が開始され、当時有力産業であった生糸生産のための桑田経営がなされ、今日までその企業系譜が連なる。明治11年(1878年)には、士族の銀行として「国立第九十銀行」が設立、明治後期には旧呉服町を中心に金融街が誕生する。

明治22年(1889年)4月1日、南岩手郡から分立、市制施行により盛岡市が生まれ、盛岡城内丸跡に県庁、市役所、裁判所、警察署、消防署、合同庁舎が集積、官庁街が形成された。また後の昭和初期に、藩主の御膳に野菜を供した盛岡城御菜園跡が土地区画整理により開発され、現在の中心街(大通・菜園)が形成された。 明治29年(1896年)には盛岡銀行(現・岩手銀行中ノ橋支店)、翌年には「私立岩手病院(現・岩手医科大学附属病院)」が設立されるなど、維新後の荒廃から一転、勢い強い時代を迎える。

明治憲法発布から第二次大戦まで

1890年の東北本線盛岡駅開通以後、盛岡は鉄道と深い関わりを持つこととなる。1891年(明治24年)の小岩井農場(小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道会社社長の小野義真、鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により日本国有鉄道が成立する経緯には、盛岡出身で当時鉄道を管掌する逓信大臣であった原敬の影響が大きい。後世、盛岡には国鉄盛岡工場・鉄道管理局が置かれ、鉄道を主軸とする地域経済の活発化に多大な影響を及ぼした。原敬は旧盛岡藩家老職の家に生まれた出自を背景に、明治維新で辛酸を嘗めた盛岡をはじめとする東北地方の復権に貢献したか、皮肉にも東京駅で銃弾に倒れた。東京駅を設計したのは、盛岡市出身の葛西萬司と、師の辰野金吾であった。

大正期にかけ、盛岡には「陸軍騎兵第三旅団23連隊」が置かれ、秩父宮雍仁親王が入隊した。併せて「工兵第八大隊(現在の国立病院機構盛岡病院の地)」「陸軍予備士官学校(現在の森永乳業盛岡工場の地)」が置かれ、一帯は「観武ヶ原(みたけがはら)」練兵場となる。この命名は、大正天皇が行幸観閲した折に命名されたと伝えられる。昭和に入り一帯は開拓され農地となり、広大な牧野を背景に「岩手県営体育館」をはじめ「岩手県警察学校」が整備される。また、「岩手国体」開催に伴う「岩手県営総合運動公園」整備によって、みたけ地区は碁盤目状に整備されて飛躍的な宅地化を遂げ、「岩手県営スケート場」「岩手県営武道館」など県立スポーツ施設が集中的に整備される契機となった。

第二次大戦後
現在まで

* 1982年 - 東北新幹線「盛岡〜大宮」間が暫定開通。
* 1984年 - 非核平和都市を宣言。
* 1985年 - カナダのビクトリア市と姉妹都市の盟約を締結。
* 1991年 - 東北新幹線「盛岡〜東京」間の整備完了。
* 1992年 - 紫波郡都南村を編入合併。
* 1993年 - アルペンスキー世界選手権盛岡・雫石大会を開催。
* 1997年 - 城下もりおか400年記念事業を展開。
* 2002年 - 旧盛岡藩士をモデルにした小説「壬生義士伝」がテレビ東京でドラマ化、平均視聴率9.1%のヒット作に。後に映画化もされ、注目される。
* 2005年(平成17年) - 民間レベルの交流により、「在盛岡フィリピン共和国名誉領事館」が盛岡市大通に開設、東北全県を管轄。
* 2006年(平成18年)1月10日 - 岩手郡玉山村を編入合併し、旧村域は「玉山区」、旧役場は玉山分庁舎「玉山総合事務所」となった。同年2月、盛岡市長により「盛岡ブランド宣言」が行われる。

花と緑のまちづくり事業により、市長の提案による「ハンギングバスケット運動」の推進、「盛岡ブランド」創出に向けた取り組みや、城下町に由来する旧町名の復活・活用に向けて市民レベルでの動きがある。2008年4月までに中核市への移行を目指し、保健所の行政事務移譲に向けて、平成18年に岩手県競馬組合より競馬会館を取得。 また、岩手県が提唱する合併モデルに基づき、矢巾町・雫石町・紫波町・滝沢村との広域合併を視野に調整が進められている。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


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