平成22年度「一回目」
緑が丘・黒石野商工業会 主催 平成22年度 地域活性化事業

平成22年度 第二回 (通算19回)「あきんど塾」報告
上田〜高松〜緑が丘・黒石野地区の歴史について

2010年6月18日(金)
緑が丘児童・老人福祉センターにて、2010年度 第2回目のあきんど塾を開催しました。

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講師は、高松第一町内会会長の鈴木孝男氏。
当会の隣り、高松商店会「観桜会」にて三度にわたり「高松とその周辺」と題した講演会を行った方です。

今回は、[はじめに]として「お話をひきうけるに当たり「黒石野・緑が丘地区の歴史」ではなく、広い意味での「上田の歴史」でよいとの承諾が得られましたので、この地域に住んでもいない人間ですが、お話をする事を引き受けました。」と語っています。


1 高松神社=お庚申さん

 祭神は「猿田彦之命(さるたひこのみこと)」を奉斎し、古くから「お庚申さん」と呼ばれて来ており、「庚申」信仰の社です。
高松神社の拝殿には、古びた「鉄製の草履の額」が奉納されています。かって旅の安全に感謝してのものと思われます。「お庚申さん」の道祖神としての性格を知る一端です。
境内に二つの「庚申供養塔」が残されています。
 「庚申供養塔」の一つは、明和元年(1764年)建立の銘があり、県内の庚申碑の中でも古いものに属すると共に、「猿と鶏」の絵が刻 まれている珍しいものです。この「庚申供養塔」の寄進者として、黒石野村の「三九郎・金之丞・喜八・三之丞・甚之丞・久兵衛・三吉・与平治」の8名が刻まれています、七月十七日は、昔の例大祭の期日です、「ご庚申さん」と黒石野の人々とは、古くからの関かわりがあった事が知られます。


2 黒石野の「山の神さん」=「山祇(やまずみ)神社」

 黒石野の「山の神さん」は、伝承によれば五百年位前からこの地にあったとされています。
 盛岡城築城以前にも、平安時代末期にはすでに盛岡の地には「仁王郷」や「上田城」があった事が記録に残っています。
 「ご本体は、鉞(まさかり)と縄をもった木像」であると言われており、山の木を切り出す鉞とそれを運び出す縄を持つ木像である事は、興味深く、古く黒石野の人々の生活が森林を中心にしていた事が伺われます。九月十二日が例祭日とされ、その日には「黒石野神楽」が奉納されました。「黒石野神楽」は、早池峰山の岳神楽の系統である事を古く古老が語っています。また、今も残る「神楽面」は、古い様式の物と伝え聞いています。


3 「上田の一里塚」

 寛永年間に、城下の鍛冶丁に里程の元標が設けられ、領内の里程はここを基準にしました。南の一里の場所に「川久保の一里塚」、北の一里の場所に当たる蝦夷塚に「上田の一里塚」が作られました。「上田の一里塚」は、「上田の畷道」が完成してから出来たと思われますので、少し時代が後になります。元は道路の両側に一対の塚が築かれていました。

 昭和11年(1936年)に、「盛岡ドミニカン修道院」(聖ドミニコ女子観想修道院)が、蝦夷森の地に建設され、一里塚が修道院内に囲み込まれました。そのため道路の東側が拡張され、西側の塚だけが残される幸運に恵まれました。


4 高松の池(上田の堤)=歴史的構造物

 「上田の堤」は、上田の歴史を語る上で、最も重要な「歴史的な構造物」と言えます。
 この「上田の堤」が出来て、上田畷道が作られ、さらに「上田桝形」が設置され「同心」も配置されて「上田組丁」となって行きます。構築されて暫くは、藩主の「御鳥溜め池」として保護され、庶民の立入りが禁止されていました。

 「高松の池」の呼称は、大正時代以降の新しいものです。
 「高松の池」は、現在桜の名所・絶好の散策地として四季折々、地域の人はもとより、多くの市民に親しまれていますが、かっては「スケートのメッカ」であった事を知る人も少なくなっています。
 昭和6年(1931年)に「全国中学校氷上大会」が開かれており、戦後の昭和23年(1948年)には、「第3回冬期国体スケート大会」が開催された歴史があります。


(報告と写真 anbe )

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