緑が丘・黒石野商工業会 主催 平成22年度 地域活性化事業 平成22年度 第三回 (通算20回)「あきんど塾」報告 『街歩きで盛岡再発見』 2010年9月24日(金) 緑が丘三丁目公民館にて、2010年度 第三回目のあきんど塾を開催しました。 今回は、NHK文化センター講師で、市民グループ「文化地層研究会」の真山 重博様をお招きし、「街歩きで盛岡再発見」と題しご講演いただきました。
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真山講師は、ご自身の勤め人時代に健康を考えて散歩を始めたことからお話しを進め、
犬を飼って、朝 1〜2時間早起きをし、近くを散歩した。 車に乗っていたんでは見つけられなかった、ヘレン・ケラーが盛岡に来ていた事を知り、 ネットで調べた結果 昭和12年に来日し、6月12日には盛岡に来ていた。 図書館でその日の岩手日報を調べると、公会堂と下ノ橋中学校で講演をしていた。 それがキッカケで盛岡の古いことを知るようになり、 所属する「文化地層研究会」の活動を紹介しつつ、関わってきたイベントなどを通して 盛岡の良さを発信する立場になったことをお話し下さいました。 散歩とは対極にある車社会、タクシー会社の本社や営業所の近くにあるポイントとして言うと、 ○ ヒノヤタクシー本社の向かいには藩校「作人館」があり、その地に仁王小学校が出来た。 明治6年、明治天皇が多数の有力者(桂小五郎や大隈重信などなど)を伴い 仁王小を訪れた。 ○ 中央タクシー上ノ橋営業所の近くには、鍛冶町一里塚があった。 これは江戸日本橋を起点として奥州に来る139番目の一里塚で、盛岡藩の道路の起点になっていた。 140番目は緑が丘にある「上田一里塚」、上ノ橋は盛岡藩の日本橋とも言える。 ○ 今は吸収合併で無くなった杜陵タクシー、向かいには岩手県公会堂がある。 大正2年、当時の皇太子であった昭和天皇が結婚した。それを記念し公的な集会場がなかったこともあり、盛岡の市長が岩手県に働きかけ、豪商などの寄付を募り43万円の予算の内20万を拠出して昭和2年に完成させた記念建築物である。 ○ 平和タクシーの本社前には白百合、当時の東北女学校、ミッション系の学校があった・・・・・ タクシー会社のあるところ元にして歴史的な話がボロボロと出てくる。 こんな話を転勤族がよく読む日経新聞や朝日新聞、盛岡タイムスを扱っている東北堂から出している情報誌”APPLE”に「もりおか歴史散歩」というコラムを書いた。 反応は、むしろ転勤族の人より地元の人だった。 転勤族の人々は互いの情報網を持ち、自分が来た土地のことに結構詳しい。 返って地元の人の方が地元の事を知らない場合が多い。 ラジオに出て同じような話をしたが、反響は地元の人からが多い。 盛岡に生まれ育ったが、知らなかった とか、そういう謂われがあったのか、等など。 盛岡の人は、 他所から来た人々に「盛岡の見どころはどういう所なんでしょう?」と聞かれると、 「何にもながんす〜!」と言っちゃう。 喋るのが億劫だからそう言って済ますこともあるでしょうが、ここに住んでいながら案外地元を知らないことも多い。 ほんとうに盛岡は何も無いかというと、いえいえ どうして、ここならではの面白い話がいっぱいあります。 |
と言いつつ、先ほどプリントで出されたモリケン3級の問題集の答合わせをしながら それぞれの正解はどういうことかと説明、ここに居ながら知らなかった、ということが多いことに気付かされました。 では ここで問題をひとつ。 問 盛岡競馬場の愛称「オーロパーク」のオーロとは、ラテン語でどういう意味ですか? 答え 1、一角獣 2、翼を持った馬 3、黄金 4、ひづめ 正解は3番の「黄金」です。 盛岡競馬は 馬産地岩手では、藩政時代から各地の神社境内の直線馬場で奉納競馬が行われていた。 明治4年、県産馬会が盛岡・菜園におよそ1000mの楕円形馬場を新設、生産地岩手 を大きく盛り上げたと言われる。 明治17年9月、前年建設された岩手調馬会社主催による第一次秋季競馬会が、この菜園競馬場で大盛況のうち行われた その後、明治36年に県産馬連合会が盛岡上田(現 高松二丁目)に一周1000mの円形馬場を開設。当時の騎兵藍・閑院宮載仁親王によって近くに湧いていた黄金清水にちなんで「黄金競馬場」と命名された。 昭和7年には「新黄金競馬場」の移転工事が始まり昭和8年に毛無森(現在地の緑ヶ丘一丁目・旧盛岡競馬場)に完成。 平成8(1996)年4月6日 盛岡市新庄字上八木田に移転、「オーロパーク」と命名 盛岡のことを知って頂き地元に愛着を持って「おもてなしの気持ち」で接することを求められているんじゃないか。 盛岡の事を知るキッカケになるのがモリケン「盛岡もの識り検定」になればいいな。 是非、これを機会に皆様も盛岡のことを良く知って頂きたいと思います。 為になるお話しでした。 写真・文責 あんべ@佐藤
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