盛岡市の北、上田から国道4号バイパスを越え松園方面へ向かう市道上田深沢線沿いに緑が丘・黒石野の地域はある。
一里塚 一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に、旅行者への距離の目印として設置した塚(土盛り)である。 元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていた。ただし、当時の中国での1里は約500mであった。 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を基点とし36町を一里(3972メートル)と定め、一里ごとに里程標として全国主要街道に築かせた。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。 街道の両側に築かれた一里塚は、その上に植えられた樹木と相まって、里程標として、また夏は涼を求め、冬は雪を避ける手段ともなり、旅人に便を与えたという。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
盛岡ドミニカン修道院 1936年、ベルギーから6人のドミニカン・ロザリオの聖母修道会が来日し盛岡に修道院を建てるために着いた。内丸の借家を仮修道院としながら、1939年(昭和14年)に、上田蝦夷森(緑が丘)に最初の女子観想修道院「ロザリオの聖母修道院」を建てた。 1986年に松園に隣接する上田松屋敷の地に移転、修道院を新築した。 築造以来に流れた歳月は四百年。その間、なにも言わずに人間の生活の移り変わりをじっと見つめてきた一里塚 伊山治男氏 写真集 「あの角を曲がれば」から
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