緑が丘・黒石野商工業会 主催「平成22年度 地域活性化事業」

平成22年度 第二回 (通算19回)「あきんど塾」報告
上田〜高松〜緑が丘・黒石野地区の歴史について
[はじめに]/高松神社/山祇神社上田の一里塚高松の池


1 高松神社=お庚申さん

 私は、昭和7年「盛岡市上田字庚申長根65番地(現在名=高松1丁目14-36番地)で生まれ、現在もそこに住んでいます。小さい頃から「高松神社」や「高松の池」等の地域を遊び場として、成長して来ました。現在、高松第一町内会長・高松神社責任役員を引き受けていますが、この地域で育てられた者との想いもあり、これらの役をお引き受けしています。


@ さて「高松神社記」によれば、「庚申(こうじん)社」は、寛永2年(1630年)時の豪商寺町(花屋町)の三郎兵衛・三太夫の二人によって発願され、有志崇敬者が建立した「社(やしろ)」とされています。

 祭神は「猿田彦之命(さるたひこのみこと)」を奉斎し、古くから「お庚申さん」と呼ばれて来ており、「庚申」信仰の社です。「猿田彦之命」は、「さる」の名称の付くことから「庚申(かのえさる)」との関連が深く、また「道の守神=道祖神」としても、記紀以来知られています。

A また、境内に二つの「庚申供養塔」が残されています。
  「庚申供養塔」の一つは、明和元年(1764年)建立の銘があり、県内の庚中碑の中でも古いものに属すると共に、「猿と鶏」の絵が刻まれている珍しいものです。この「庚申供養塔」の寄進者として、黒石野村の「三九郎・金之丞・喜八・三之丞・甚之丞・久兵衛・三吉・与平治」の8名が刻まれています、七月十七日は、昔の例大祭の期日です、「ご庚申さん」と黒石野の人々とは、古くからの関かわりがあった事が知られます。(資料2)

 ちなみにもう一つは、文政四年(1821年)建立のもので、凡字(青面金剛)と「庚申」の文字が大きく刻まれており、寄進者は三戸丁の「源助」他6名の名が刻まれています。高松神社の崇敬者が、かっては上田全域に及んでいた事が知られます。

B 「お庚申さん」は、本来土俗神であり、神仏混合的な性格の神ですが、明治に入り「神仏分離令」の施行に伴い、神格が強調され「高松神社」と命名されました。小高い松林に囲まれた社から「高松」の名が冠されたものと思われます。従って「高松」の地名は、明治以降の新しいものです。現在の「高松第一町内会」の大部分の字名は、「庚申長根・庚申窪・毛無森・古道」でした。

*高松神社の拝殿には、古びた「鉄製の草履の額」が奉納されています。かって旅の安全に感謝してのものと思われます。「お庚申さん」の道祖神としての性格を知る一端です。
 「お庚申さん」の本体は、「青面金剛(しょうめんこんごう)」とされており、修験道との関連の深い神とされています。従って、古い掲額には「青面金剛」の象徴としての「金剛剣(直刀)の額」が奉納されています。

 *高松神社の裏参道を上る右側に、今も大きく窪んだ穴があります。
 この穴は、昭和初期の頃「氷室」だった所と言われています。厳冬期に黒石野の「採氷場」で切り取った氷を格納しておき、夏の使用期に町に運び出すための「氷室」だったと伝えられています。規模が小さいため効率が悪く、取り壊されたとされています。






(報告と写真 anbe )


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